bobourata

見た作品の事とか考えてる事を書くと思います。

男女の立場が逆転した世界を描いたNetflixオリジナル映画『軽い男じゃないのよ』を見た

 

Netflixオリジナル作品『軽い男じゃないのよ』を見た。フランス映画だ。

 

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www.netflix.com

www.imdb.com

 

仕事でも成功し、イケメンで、女性を口説くのが好きな男が、ある日突然、男女の立場が逆転した世界に迷い込んでしまう。


女性中心に社会がまわっていて、男性は家事や育児に追われ、社会では不当な扱いを受けている。この世界の男性は、仕事で全く評価されないどころかちゃんとした仕事にもなかなかつけないし、容姿や身なりで価値をつけられるので、好きな服を着て、言いたいことを言い、自分らしく振る舞うと「男らしくないよ」と言われる。そんな世界に絶句する主人公。

男女逆転の世界に迷い込む直前に一目惚れした女性と再会したことから、話はロマンスの方向へ進んでいくが、ここでもよくあるラブストーリーが完全に男女逆転した状態で描かれていく。

 

しかしよくあるハッピーエンドでは終わらない。

最終的には、すべての人が男らしさ・女らしさに(意識的であっても無意識であっても)縛られて生きていることが、いかに自分の成長や人とのコミュニケーションの妨げになっているかが教訓的に描かれている。

この映画は、ラブストーリーではなく、最初から最後まで徹底したフェミニズム映画だった。

 


現実社会を女として生きている身としては、男女逆転した世界の中で戸惑う主人公の姿を爽快な気分で笑って見ていられたのは一瞬だけだった。

この映画は、現代社会に溢れる女性の不当な差別の現実を、ありのままに(男性に置き換えて)描いている。


性差別を客観的に見ると、いかにこの世の性差別が理不尽でおかしなことかがよく分かる。

当たり前なこととして受け入れてきた価値観も、客観的に見ると「こんなに変なんだ…」とゾッとする部分もあった。見ていて辛かった。

 

この映画の興味深いところは、女性がかわいらしく着飾ることが「女らしくない」とされているところ。

ようは、女性はラフでナチュラルでいることがいいとされる世界なので、ブラジャーをつけていなくても、メイクをせず外出しても「みっともない」と思われないのだが、スカートやワンピースを着たりハイヒールをはいたりメイクしたりすることは「女らしくない」とみなされている。

 

これは、現代社会に置き換えると、「男らしさ」という価値観が、時に男性の自由を奪っていることがあることを表現しているんだなと思った。

 

性差別は、男性にとっても、女性にとっても、自分らしく生きることの妨げになっている。

 

自分らしく生きられる世の中になるには、何が必要か?

 

この映画を見終わった後、

 

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの男も女もみんなフェミニストでなきゃ

を思い出した。

 

 

以下、アマゾンから引用

「わたし自身の、フェミニストの定義は、男性であれ女性であれ、
『そう、ジェンダーについては今日だって問題があるよね、
だから改善しなきゃね、もっと良くしなきゃ』という人たちです。
女も男も、私たち「みんな」で良くしなければいけないのですから。」

ジェンダーが世界のすみずみで問題になっています。
そこでわたしは今日、それとは違った世界を夢想してプランを練りはじめたほうがいいと呼びかけたいのです。
もっと対等な世界を。自分自身に誠実であることで、
より幸せになる男性たちとより幸せになる女性たちの世界を。
これが私たちの出発点です。
私たちの娘を違うやり方で育てなければいけないのです。 
私たちの息子もまた違うやり方で育てなければいけないのです。」

 

www.kawade.co.jp

 

 

これを見た後、いろんなことを考えていたら、自分のためにも、周りの人のためにも、社会のためにも、性差別がなくなることが理想だけど、実現する?不可能なのでは…?と、逆に痛いほど現実に引き戻された。

 

きっと道のりは長いんだろうな…

 

知的好奇心が刺激される面白い映画だったが、同時に、とても絶望的な気持ちにもなっている。

映画『牝猫たち』を見ました


ロマンポルノのリブート・プレジェクトの1作で、監督と出演者の名前を見て、ずっと楽しみにしていた作品です(『風に濡れた女』もかなり気になっていたけど、見事に見逃してしまった泣)。

 

風俗嬢として働く3人の女性が、それぞれの事情を抱えながら生きている姿を描いた群像劇です。
 
誰かと生きていくって、どういうことなんだろうって分からなくなっている人が、身近な人とふれあう中で答えを探している物語だなと思いました。
途中までは、見ながら「これ、最高傑作なんじゃないの?」とドキドキが止まらなくなるほど、物語や登場人物たちの素晴らしさに感動しっぱなしでした。
女性の声にならない不安や痛みみたいなものが映像にすごく出ているから、主人公3人が発する台詞にいちいちグッときてしまったし、3人がとても美しいから、見ていて楽しかったです。
でも、終盤の展開には理解しきれなかった部分がいくつもあって、映画を見て数日経った今でも、映画のことを思い出しては色々考えてしまいます。
『牝猫たち』は、「リブート・プロジェクト作品の中で最もロマンポルノらしい作品だ」って絶賛している人が多かったのですが、私はロマンポルノを1作しか見たことないから(『色情めす市場』ってやつです)何がロマンポルノらしいのか分からなかったので、もっと昔のロマンポルノを見てみたら答えが見つかるのかな、という気もしてきました。もうしばらく、答え探しの旅が続く気がします…(『色情めす市場』のDVDを持っているので、近いうちに見返そうと思います)。
 
でも、映画を思い出して考え事をしているうちに、最近読んだ雨宮まみさんのある文章の一節を思い出しました。
 

“ひとは誰かに自分を、認めてほしいのでも褒めてほしいのでもなく、「確かめてほしい」のだと思う。”

『わたしたちの猫』 推薦文 雨宮まみ | ナナロク社 より抜粋。この『わたしたちの猫』という詩集は、文月悠光さんの作品です(福間健二監督作『あるいは佐々木ユキ』の劇中で、詩を朗読しているの見て知った作家さん)。とっても素敵な詩集なので、ぜひ読んでみてください。

 

私はこの映画を見終わった後、これは『ショートターム』と同じ枠に入る映画だな、って思ったんです。扱ってる題材も物語の内容も全然違うんですけど、物語の底の方にあるメッセージに似たものを感じました(わかる人はわかってくれるはず)。まみさんの言葉には、私が『牝猫たち』を見て受け取ったメッセージが詰まっていると思いました。
 
 
様々な問題を抱えていても、生きづらいと思う世界を自分なりに必死に生きようとしている人の物語は、見た後不思議な元気をもらえるから好きです。
 
急に個人的な話になりますが、
日曜日の夜の回を見に行ったんですけど、鑑賞後、一緒に見に行った子とあーだこーだ映画の話をしながら夜の街を歩くのが本当に楽しくて、こんな嬉しいことないなって、身近にいる人の存在をとってもありがたく感じました。『牝猫たち』は、そんな気分にさせてくれる映画でした。
映画を見た後、外に出たら目の前の景色が変わったいう体験、久しぶりにした気がします。
 
今週末で新宿での公開が終わってしまうなんてもったいない、たくさんの人に届いて欲しい作品です。
見てない方も、何とかしてぜひ見て欲しいです。
 余談ですが、
『牝猫たち』は全編アフレコで作られているので、昔の映画を見ている気分になる楽しさもありました。特に、主人公3人が働く風俗店の店長のハイテンションなお芝居シーンは、口の動きと台詞が全然合ってなくて、その感じがとても良くて、『女は度胸』の渥美清を思い出しました。
 

映画の感想じゃなくて、映画見た時の思い出話

昨日は、ずっと前から一緒に映画を見に行く約束をしていた子にドタキャンくらって、悲しい気分で1日を過ごしました。やっぱり映画館にはひとりで行くに限る、と強がりながらも、たまには誰かと一緒に映画を見た後あーでもないこーでもない言いながらご飯に行きたかったなと変な孤独に襲われて、でも、欲張って人を誘った私のせいだ、自業自得だ、と言い聞かせながら、気持ちを切り替えました。
 
昔、友人に「映画館に一人でよく行く」って話したら、すごく驚かれたことがありました。私は、一人で行くことの方が圧倒的に多いし、ひとりで見に来てるお客さんもいっぱい見てきたから、驚かれることに驚いたのですが、友人に「寂しくないの?」と質問されて、一瞬たじろいでしまいました。映画を見に行く時に寂しいっていう感情を抱いたことがないって、その時は答えたんですけど、そうじゃない時もたまーにあったからです。
 
 
映画館に初めてひとりで行った時のこと
 
私はよく覚えていて、高校1年生の秋頃に、『フラガール』を見に行ったのがデビューでした。場所は、実家のそばにあるキネマ館っていう小さなミニシアターでした。その時客は私一人しかいなくて、貸切状態でど真ん中で見ました。
フラガール』のわりと最初のほうに、主人公の親友が引っ越しのために町を離れることになって、みんなでお別れをするシーンがあったのですが、あのシーンで自分でも引くほど泣きました。いい終わり方をする映画だったので、感動して、ひとりでシクシク泣きながら家まで帰りました。
 
実は、『フラガール』を見に行く約1週間前、クラスの同級生が突然亡くなるという出来事があったんです。
死んだ同級生のことは今でもしょっちゅう思い出しては色んなことを考えます。今生きてたら何してたんだろう、幽霊として生きてたりして、とかいろいろ。死んだ友達のお父さんお母さんの泣き叫ぶ声は今も耳に焼き付いているし、命の儚さに絶望感も抱きました。生きるってなんなのか、死ぬってなんなのか、なんのために生きていくのか、いろんなことが分からなくなりました。それは今もずっと考えている問題なんですけどね。
お葬式が終わるまでは友達の棺に入れる手紙や写真アルバムを準備したり、友達が好きだった漫画を買ってきたりして、気が張ってたんですけど、お葬式が終わった途端、何も手につかず、何も考えられなくなってしまって、何日もぼーっと過ごす日が続きました。クラスメイトのほとんどが同じような状態に陥ったようで、学級閉鎖されてしまいました。
 
家の中にずっといてもよくないと、お母さんに本でも買ってくればとお金をもらったかなんかして無理やり外に出されて、本屋に行ったけど読みたいものがなくて、本屋のそばにあったキネマ館に寄ってみたら、ちょうど映画の上映が始まる直前だったので、飛び込んで、何も考えずに『フラガール』を見始めました。
 
見終わった後の気持ちは、今も言葉で簡単に説明できないですが、あの時あのタイミングであの映画を見れて本当に良かった、と思える時間を過ごせました。
 
町を離れる主人公の親友の中に、私の亡くなった友達が見えたんですよね。あれは本当に忘れられない映画体験でした。主人公の親友は女の子、私の友達は男の子なんですけどね(笑)。性別の垣根を越えてました。
 
友達が亡くなって、もう10年も経ってしまいました。元気かなぁ
 
 
映画って、見た時の思い出も含めて記憶に刻まれることってありますよね。
 
ひとりで見るのも大好きだけど、すごくいい映画に出会えた時は、そういう記憶の中に、自分以外の誰かがもうひとりいたら、たぶんもっと素敵な思い出になるんだと思います。
友達と再会できた気がしたフラガールを見た時のことを思い出すたびにそう感じます。(ちょっと意味違うけど)
 
何を書きたいのかわからなくなってしまいましたが、映画を見るって体験でもあるから、誰かと見るにしてもひとりで見るにしても、一回一回を大切に体験したいなと思います。
 
 
ひとりで映画館に行き始めた自分の歴史を振り返っていたら、いろいろ思い出してしんみりしてしまいました。
でもこの話、なかなか人にできるものじゃないので、言葉に残せてよかったです。リアルな知り合いにも話したことがない思い出話なので尚更。
 
記憶に残っている映画体験、人の話も聞いてみたくなりました。昔、お父さんの話とかは聞いたことあるのですが、映画の感想の話はしても、映画を見た時の思い出話ってあまりしないですよね。今度映画好きの人に会ったら話聞いてみよう

Women's Marchを見た

昨日の夜中から朝にかけて、ネットでライブ配信されていたWomen's Marchを見ていました。

参加者たちの姿やスピーチする人たちをずっと見ていたら、感動して眠れなくなってしまいました。
言葉の力や、連帯感から生まれる力の強さに圧倒される内容で、怒りや憎しみからは何も生まれないけど、愛や思いやりの心には無限の可能性が広がっていると希望を感じさせてくれるデモでした。
Women's Marchで訴えられたメッセージ「壁いらない!橋かけよう!」、いい言葉だなと思いました。
 
 インスタグラムやツイッターで、エイミー・シューマーやミランダ・ジュライブリー・ラーソンやレナ・ダナムやヘレン・ミレンジョン・C・ライリーといった自分の大好きな人たちが行進に参加している様子を見つけて、とても嬉しくなりました。その中でもいちばん嬉しかったのは『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』の出演者たちが参加している姿を見た時でした。このドラマは、社会に蔓延る女性やマイノリティに対する差別や偏見、そこから生まれる様々な問題を取り上げ、問題の根っこには何があるのかを教えてくれる作品です。このドラマが訴えているメッセージは、まさに「壁ではなく橋を築こう」でもあると思うので、主要キャストが大勢参加して、作品の枠を超えてメッセージを発信している姿には感動しました。でも、スーザン役でおなじみのウゾ・アドゥバが持っているプラカードにはちょっと笑ってしまいました。

 

Women's Marchを見て、自分の意見を持つことの重要性、無関心の恐ろしさ、行動で示すことの大切さを教えてもらった気がします。
参加者のひとり、マドンナのスピーチが翻訳された記事があったので貼り付けます。

nme-jp.com

 

名前にまつわるあれこれ

 昨日の夜中、ツイッターで目にした辻仁成さんの投稿を繰り返し読んでいました。
 

 

辻さんのつぶやきは、140字の中にも物語が見えるからとても好きです。

お子さんの十くんとのやりとりがよく書かれているんですけど、辻さんが切り取った日常は、ドラマチックであたたかくて、でも浮世離れしたものでは全くなくて、私の身の回りにもありそうなとても身近なことに目が向けられています。
辻さんの文章を読むと、日々の暮らしの中でせわしなく変わる私の中の“物事を見る視点”が、いい意味でリセットされるんです。
辻さんの著書の中でいちばん好きなのは「そこに僕はいた」というエッセイ本で、中学高校時代、私の“物事を見る視点”の物差しになってくれて、日常生活でつまずく度に助けてくれた本でした。
 
そんな辻さんのつぶやきを見ながら、「名前ってその人を作るね、」という言葉の意味を考えました。今日は、ぐるぐる頭を動かしている中で、思い出した話を書きます。
 
 
私の本名は、あちこちに同じ名を持つ人がいる名字と、珍しいねとよく言われる名前で構成されています(季語で使われるような言葉が名前なので、俗に言うキラキラネームではないです!)。
 
子どもの時は、ひどいあだ名をつけられては毎日のように名前をからかわれたので、ずっと自分の名前が嫌いでした。中学では、入学直後に「名前が調子に乗っている」という斬新な理由で、先輩に目をつけられた事もありました。
でも、大人になると状況は一変。初対面の人にもすぐ名前を覚えてもらえるし、名前の由来は何なんですか?と名前にまつわる会話が自然と始まることも多々あって、人とコミュニケーションを取るとき名前にはたくさん助けられました。
 
そんな私の名前ですが、小学生くらいの時に何回かお母さんに「どうしてこの名前をつけたの?」と由来を聞いてみたことがあります。でも、響きが好きだったからだよ〜とか、昔から子どもにつけたい名前だったんだ〜とかって、私の求めるような具体的な答えを言ってくれたことは一度もありませんでした。
道徳の授業で親から名前の由来を教えてもらう課題が出た時も、周りの子は名前の文字ひとつひとつに意味が込められている中、私の由来は実にふんわりしたもので、私の名前はなんとなくつけられてしまったものなのだろうか…と、なんともいえない気分になったこともありました。子どもの時の私は、名前コンプレックスが強かったので、余計に名前に意味を求めていたのかもしれません。
 
そんなこともありながら、20歳にまで成長したある日の話。
もろちゃんという学校の友達と話していた時のこと。教室でお昼を食べながら吉本ばななさんの話になりました。ばななさんの作品についてあれこれ語るうちに「そういえば、吉本ばななを初めて読んだのいつだった?」という話になって、私は、小学4年か5年の時にある日お母さんから「これすごい面白いのよ!読んでみて!」と突然『キッチン』の文庫本をもらったから読んだのが始まりだ、と話しました。
すると、もろちゃんに「えー!あなたの名前って、もしかしてばななさんの作品からきてるの?それとても素敵だね!!」と言われました。
 
ん?ん?と、理解が追いつかず、自分がもろちゃんに話したことを頭の中で整理すると…あ!点と線がつながりました。
 
『キッチン』の文庫本には、キッチンの後に『ムーンライト・シャドウ』という短編も掲載されているのですが、その短編に私と同じ名前のキャラクターが登場するんです。(キャラクターの名前は平仮名で、私の名前は漢字なのですが、当て字でキャラクターと同じ読み方をするんです)

もろちゃんは、私と同じ名前のキャラクターがとても大好きだそうで、私の話を聞いたあと「素敵なお母さんだね~いいねぇ〜」と勝手に盛り上がってくれました。
 
もろちゃんとこんな話をした後、ムーンライト・シャドウを読み返してみました。私と同じ名前のキャラクターは、別に何か大きいことを成し遂げるわけでもない、なんてことないキャラクターなんですけど、とてもさらっとした魅力が詰まっていて、自分の名前の由来がこのキャラクターに詰まっているんだとしたら、うちのお母さんはロマンチストすぎる、と思いました。
お母さんから本を渡された時「あなたと同じ名前のキャラクター出てくるよ」って言われただけなので、私の名前に繋がるはっきりとした由来はないかもしれないですが、キッチンが出版されて大ブームになった頃のお母さんは高校生だったので、初めて読んだ時にこのキャラクターにビビっときて、私がお腹の中にいた時にそれを思い出して名前をつけてくれたのかな、とか、あれこれ想像してしまいました。
 
真相はどうであれ、自分の中で過去の出来事がいろいろ繋がった気がして、少し感動してしまった忘れられない思い出です。
 
余談ですが、もろちゃんと私の何気無い会話が壮大な話になってしまった、というロマンチックなエピソードは他にもあるので、もろちゃんはまたブログに登場すると思います。もろちゃんとは、私が勝手に心の友だと思っている大切な友達です。性格も趣味も共通点あるようでないんですけど、似たアンテナを持っているかけがえのない人です。今はもろちゃんが札幌にいるので、何年かに1回しか会わないような仲ですが、友達です。映画ヲタ仲間でもあります。そうそう、『ファニー・ゲーム』&ミヒャエル・ハネケ好きのやばい子とは、もろちゃんのことでした!(もうすでにブログに登場していました)
 
…話戻します
 
このもろちゃんとの会話を思い出す度に思うのは、名前の由来を知るって、人に自分の名前を知ってもらうのと同じぐらい意味のあることだなということです。
 
 
時々、周りにいる人の名前の由来を想像する遊びをします(はずかしいですが、本当の話です。変態っぽいかなと思って、身近な人にも言えたことがないのですが、楽しいので時々しています)。人の名前の由来を考えていると、その名前は誰がつけたのかな、とその人の家族にまで想像が及んで、それが次第に、その人は子どもの頃どんなあだ名で呼ばれてたのかな、とか、その人はどんな日に生まれたのかな…とかって、その人の人生背景にまで想像が膨らむんです。
と、いつも想像を膨らませすぎるので、本来の目的を見失ってこの遊びは終わることが多いのですが、この遊びをする度に、名前とは、不思議なものだなぁ。奥深いものだなぁと感じます。周りにいる人の名前にちょっと踏み込んでみると、相手の知らなかった一面が見えてくることもあるから楽しいです。
遊びばかりではなく、ちゃんと答えを求めて友達から名前の由来を教えてもらうこともありますよ。これは本当におすすめです。人の名前の由来を聞くって、日常だとこっぱずかしくてなかなか出来ないですけど、聞いてみるといろんなドラマが詰まっていて、すごく面白いです。
私も今度誰か友達に会うことがあったら、久しぶりに名前の由来トークしてみたいと思います。
 
 
以上、「名前ってその人を作るね、」という言葉を見て思い出した話その①でした。
 
というのも、名前にまつわる話にはもうひとつ大ネタがあるので、②ではそのことを書こうと思います。
 
ということで、つづく(^-^)/

頭を使った話と、昨日観に行けなかった『ウィ・アー・ザ・ベスト!』の話

年明けから、ある宿題と向き合っていました。
締め切りが迫っているのに、なかなか納得のいくものが書けなくて、生きる気力すらなくなってきそうなレベルで10日間ぐらい過ごしていました。
 
でも、いいこともありました。
締め切りを気にしながらずっと宿題と格闘して、やっとひと段落して久しぶりに宿題以外のことを考えたら、それまで自分の中にあった雑念がうっすら消えていることがわかりました。ここでいう雑念とは、去年の秋からずっと心を持っていかれていた大きな悩みのことで、以前ブログにも書いた“極悪非道な悪人のようなぐるぐる”の正体でもあります。
 
悩みの底にある根本的な問題が解決する前に、悩み自体がどうでもよくなってしまうなんて、人の頭ってよく出来ているなと思いました。
 
宿題はしんどかったけど、気持ち良く頭を動かせたのでよかったです。
でも宿題はまだ終わっていません…(ただいま現実逃避中)
 
 
昨日、立川の映画館で『ウィ・アー・ザ・ベスト!』の上映がやっていたのに行けませんでした。とても残念。
 
『ウィ・アー・ザ・ベスト!』とは、スウェーデンが舞台の映画で、13歳の女の子3人が思いつきでバンド活動を始めるっていう話なんですけど、思春期の痛い感じがリアルに表現された作品で、「私たちマジ最高!」みたいな若い子特有の無敵感で突っ走る主人公たちが、可愛くて仕方ないんです。親や友達との距離感がうまくつかめずに悩む姿も繊細に描かれていて、青春のキラキラした部分もほろ苦い部分も誇張することなく淡々と表現されているところが、とてもいいなと思って大好きになりました。
 
この作品を見た後、中学生や高校生の頃にあった、どこから湧いてきたのか分からないけど何でも出来そうな気がしていた謎の自信とか、持て余すほど溢れ出ていた好奇心は、とても貴重なものだったなと思えて、と同時に、若い時の失敗もそれと同じぐらい貴重な経験だったと思えて、映画の余韻と共に、しばらく不思議な自己肯定感に包まれました。
 
日本ではソフト化されていないので、映画館のイベントなどで上映される時しか観るチャンスのない作品なのですが、ゆるやかに気分を上昇させてくれる優しい映画です。隠れた傑作だと思います。おすすめです。

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左から、ヘドヴィグ、ボボ、クラーラ といいます
 

 

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映画の中の3人も素敵ですが
 
 

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素の3人も最高です

手帳に何を書くか問題

あけましておめでとうございます。
 
年末年始を実家で過ごせなかった時って、年越した感が全く湧いてこないので、未だに2016年を引きずった感じです。
 
1、2日は何にもしないまま時が過ぎましたが、3日からは、毎晩映画を見ています。
 
一昨年、手帳に仕事のスケジュールしか書かなかったことを後悔して、去年からは、見た映画のタイトルを手帳に記録するようになったのですが、新年一発目に映画を見た後それを記録しようと思った時に、これまで使っていた16年の手帳の続きがなくなっているのに気づいて、やっと年が変わったことを実感しました。
今年の手帳は、おじいちゃんがプレゼントしてくれた手帳を使います。去年もおじいちゃんおばあちゃんが手帳をプレゼントしてくれたのですが、わんちゃんの絵柄がかわいすぎて、当時の職場には持っていけなかったので家用の手帳として使っていました。
 
去年仕事を辞めてからは、嬉しいことがあった時はそのことも手帳に書き残すようにしていて、内容は、「会社辞めた翌々日に会った友達がいっぱい元気をくれて、その喜びを忘れたくなくて、見たらこの日の事を思い出せるように映画のブルーレイを買って帰った」という報告だったり、久しぶりに会えた友達が教えてくれたおすすめ映画のタイトルをひたすら羅列していたり、妹が泊まりに来た時に起きたことを朝から晩まで時系列で記録していたり、夢の中で好きなドラマの登場人物と会えたことを事細かに書いていたりと、実にカオスなのですが、嬉しかったことを忘れない内に必死に文字で残しておいたことは、無駄ではなかったかも、と読み返しながら感じました。
(ちなみに、友達と会った思い出を忘れたくなくて買ったのは『花とアリス殺人事件』と『サンキュー、ボーイズ』で、友達が教えてくれた映画は『ニューヨークの巴里夫』やNetflixで限定配信されている『双子物語』などでした。)
 
今年は、手帳にどんなことを書きながら過ごすのか、見た映画のタイトルを記録すること以外は今はまだ想像がつきませんが、来年あたり読み返した時にクスッとできるようなことが書いてある、そんな1年を過ごせるといいなと思いました。とりあえずは、シナリオをたくさん書いてブログもたくさん書いていこうっていうのが今いちばんの目標です。あと、素敵な映画や本にたくさん出会いたいです。
 
ちなみに、今年の初夢は、川上未映子さんとおしゃべりしている夢でした。とっても幸先のいい夢だ!と思いました。いい加減「あこがれ」を買って読もうと思います。
 
〜雑談〜
昨日、10日ぶりぐらいにFacebookを見てみたら、ポジティブすぎる投稿が並びまくっていて、見てるだけで体を壊しそうになりました。Facebookって恐ろしいなと思いました。みんな前向きなことを書いて自分を奮い立たせるんでしょうか、時々ネガティブだったり毒っ気だったりがあったほうが、魅力を感じるけどなぁと思いながら、なんだかんだ1時間ぐらいみんなの投稿を読んでしまいました。1時間読んで得たことは、新年の抱負を空の写真とともにあげる人多いんだな、という謎の発見のみです。
あと、同世代の友達が何人もパパとママになっていることを投稿を見て再確認し、なんだかとっても感慨深くなりました。今の時代に生まれた子どもたちは、いろんな形で親が残した自分の成長の記録を見ることができるんだなと思うと、友達の投稿にうかつなコメント書けないなと思いました。あれ、そう考えると、ポジティブ投稿が溢れかえるFacebookには、それなりに理由があるってことか…と、Facebookを見ながら感じた疑問は、なんとなくですが、あっという間に解決しました。
 
こんなことばかり書くと思いますが、今年もどうぞよろしくお願いします。